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映画「君たちはどう生きるか」(ネタバレ含む)、溢れる悪意とどう向き合うのか?

すごい映画でした。感動で涙したし、余韻がすごかった。宮﨑駿監督は自分のうちなる悪とどう向き合って生きていくのかを問うた映画だと思いました。
「君たちはどういきるか」ポスター(一部)

映画「君たちはどう生きるのか」をゼロ知識で見ました。知っていたのはポスターと宮崎駿監督の短いコメントのみでした。スタジオジブリが全く情報を出していなかったので、それに敬意を表して封切り直後ゼロ知識で見ました。

ネタバレを含みます。映画を見てあれこれ考えたい人向けに書きました。

すごい映画でした。鑑賞後の報道やネタバレサイトもこの記事を書くまで見ないと決めていたので見ていないですがこの映画は賛否でるでしょう。わかりにくい映画であることは間違いありません。でも私は感動して涙が出ました。また、帰り道、監督の意図に思いを馳せ余韻がすごかったです。何度も見る予感もします。賛否が分かれるのはサブテキストの手法を多用して言語説明がないからです。言語説明されるストーリに慣れているとフラストレーションが貯まるでしょう。この映画は登場人物の心の動きが書き込まれたアニメとしても評価されると思いました。この記事は他の評論も全く見ずに書いています。まだ一度しか見ていないので思い違いもあろうかと思いますがご容赦を。

印象的な出だし

半鐘の連打音からスタートは戦争映画なのかな、と思いました。主人公・牧真人の母が入院する病院が火事で駆けつけるも彼女を助け出せず病院は全焼してしまいます。焼け落ちる病院を見て真人はひどく衝撃を受けます。そして戦争がひどくなるに従い父と母の実家に疎開するのですが、実家は叔母(母の妹)夏子と八人だったかの老いた爺婆の使用人が暮らす大きな家の旧家です。叔母は父と結婚する予定でお腹に父の子供を宿しています。駅に到着直後夏子から告げられます。真人はそんな父と叔母を顔には出しませんが受け入れられません。

家には異形の世界を感じさせるアオサギがいます。叔母はスパイしていると言います。直後アオサギは真人に母が助けを求めている、一緒に行こうと誘いをかけます。真人は行ってはいけないと言われたアオサギの住むうらびれた塔に何度か行き、アオサギと対決を覚悟し武器となる弓を自作します。アオサギは真人を誘惑し、頭の中で作り物の母を見せたり、異形の世界(ここではあの世ということにします)に連れていこうとします。あの世を御す老王?のメッセンジャーなのでしょう。

最初アオサギは真人の誘惑に失敗するのですが、叔母の夏子が森に歩いていく姿を見たのを最後に行方しれずとなり、塔に行ったと直感した真人は使用人でオババのキリコと塔に探し行きます。そこでアオサギと対決することになります。矢の効果もあり主導権を握った真人は夏子の入る場所(あの世)にアオサギに案内させます。オババのキリコも一緒にあの世に落ちていきます。

その後ストーリは、縁のあった人達と力を合わせて幾多の困難を乗り越えながら夏子を救い出すという冒険モノの展開を見せます。その中にあの世の存在する意味や悪意などが散りばめられていきます。

あの世での救出冒険

庭奥の不思議なことの起こる塔は実はこの世とあの世をつなぐ装置であり、あの世は主人公の異国の血を引く祖先(おじいちゃん?)が御す世界でした。あの世には死人だけでなく、人が生まれる前の存在(名前失念)もいますが喰う喰われるの世界です。人になる元の存在も魚を食べ満たされることで空に舞い上がって人に生まれ変わることができます。不思議な世界です。

大きな魚が捕かりそれを食べた人の元は空に登って人に生まれ変わるのですが、その途中で多くがペリカンに食べられてしまいます。それを火を使ってペリカンを追い払うのが久子で、この世では焼死した真人の母と後にわかります。あの世では若い姿です。あの世では殺生は死人にはできないようで、魚を獲ったのはあの世に住む若い漁師で一緒に落ちたあのお婆キリコです。

あの世にはペリカンの他、セキセイインコ達が住んでいます。真人はアオサギと夏子を探す途中、包丁を持つセキセイインコの群れに襲われ食べられそうになしますが、その時も久子に助けら、彼女の案内でこの世の戻り方や石の秘密、夏子のいる産屋を教えてくれたりします。

あの世を作っているのは石です。石は光ったり電撃する力を持ち、意志も持っているようです。あの世とこの世を橋渡しする塔もこの石でできていると思いました。

真人は共となったアオサギや久子の借りて困難を乗り越えあの世を御す真人の先祖(ここではバランサーと呼ぶことにします)のところにやってきます。夏子を返すよう祖先に直訴するためです(確か)。そこでバランサーは直系である真人に後を継ぐよう迫ります。バランサーはあの世を悪意に満ちた世界にしてしまったことに心を痛めていました。悪意とはあの世には隙あらば喰べてしまう世界のことなのでしょうか。年老いた身にはバランスを取るのが大変で、自分の代わりにあの世を託す子孫が来るのを待っていました。自分のできなかった悪意なき世界を実現することを託したかったのです。そこに現れたのが真人でした。バランサーは真人に”あの世を好きにできるぞ”と提案しますが、真人はこの世に戻ることを決意します。

この映画は「反戦」が通底しているのでしょう

タイトルの「〜どう生きるのか」は映画の中で主人公に対して実際にそう言葉で問いがあったわけではありません。映画には主人公が母が残した自分宛のこのタイトルの本を涙しながら読むシーンは出てきますが、どうして涙したかは語られません。このタイトルは観客はストーリを追うのに夢中で映画を見終わったに「そう言えば映画タイトルの意味ってなんだっけ」と余韻の中に疑問から内省へと誘う仕掛けのように感じました。

真人にも真人の中に悪意がありました。父の子を身籠った叔母を母とは認めず、疎開した先でいじめの洗礼を受けた直後、自宅に戻る時に自分で自分の頭を殴って大怪我をします。それが悪意の印と自分で説明しました。自傷によって身近な人を心配させ、そんな自分が許せない悪意があったと自覚しています。

彼は叔母探しの間に「夏子という人を探している」という言い方から「母の夏子」と言い方が変わっていきます。言い方を変える前に世界と自分に気がついた瞬間があったはずですがそれがどこだったのか思い出せません。残念ながら見逃してしまいました。

真人はバランサーからあの世を継ぐことを断り、久子と友達になったアオサギとで壊れるあの世から命辛々この世に戻ってきます。夏子もキリコも戻ります。

映画は2年後東京に家族で戻るシーンで終わっています。この世に戻ってきた母はどうなったかとか刈り取りの説明はなく終わっているので消化不良で見るものを困惑させますが、そこは言いたいところではなかったのでしょう。最近ですと、映画「TAR」、あるいは「aftersun」の終わり方に近いものがあります。余韻の中に観客に考えさせるという手法でしょうか。

考察:監督の言いたかったことは何か

断筆した宮崎監督が長考の末生み出した作品である以上大きなメッセージを込めたのだろうと思います。どこを切り取るかで解釈は違うのかもしれませんが、2つの事柄に焦点を当てたいと思います。

一つ目はあの世の壊れ方です。あの世が壊れたはインコの王があの世を御す石を、剣で断ち切ってしまったことがきっかけでした。インコ王の要求はインコの独立(あるいはあの世の支配?)だったと思います。インコの王は覚悟を持って行動したと表現されていました。このシーンは、仲間が増えたにも関わらずあの世の破壊者になってしまったことを戦争の原因として隠喩しているのかなと思いました。あの世は生まれる前の人を食べるなど「悪意で満ちた世界」であってもバランスを取ることで成り立っていた世界でした。力を持ったインコ族の野望があの世の終わりしてしまったと解釈しました。もちろん真人の引き継がないという意思もそれに影響したでしょう。そして真人の中にある悪意。この真人は”風の谷のナウシカ”のナウシカの中にある押さえ込めない凶暴性と相通じるものがあると思いました。

映画の中も現実の世界も戦争があります。いずれは戦火に巻き込まれるのに、護国を口にする施政者に喝采を送る市民は我々でもあります。我々にも悪が心にあります。その悪をどう御して生きていくのか、そこにこの映画の主題を見ました。悪の心を持つ君たちはどう生きるのかと。監督から投げられたボールはこれを見た観客一人一人が持つことになりました。そして「悪の心を自覚しながら生きていくことを考えろ」と監督が言いたかったことかなと思いました。

「幸福な家庭はどれも似たものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである(トルストイの『アンナ・カレーニナ 第1編』)」と言われますが、内なる悪に負ける時、世論という案外同じ顔をしているのかもしれません。無自覚なのがまずいのかな。スケールの大きなテーマをアニメーションのフォーマットで言葉少なく、異形の世界の冒険譚で伝えようとする監督の挑戦に拍手です。

以上

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created: 2023-07-16 19:15:04
modified: 2025-02-07 18:21:52
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