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「太陽が昇らない世界」で、鬼はなぜ人に還ったのか?—『鬼滅の刃・無限城編』が照らす、現代社会の「絆」と「人間」の真価

衝撃の『無限城編』OP、Aimer「太陽が昇らない世界」。絶望の淵で、鬼・猗窩座が見せた人間の光に心震えたのはなぜか?鬼滅の刃が描く「つながりの断絶」と「絆」の真価を、森の民と砂の民のメンタリティから考察しました。
劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来

おすすめ度

⭐️⭐️⭐️⭐️(4.0)


『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』の感想(ネタバレ注意)

2025年7月18日、ついに幕を開けた『劇場版「鬼滅の刃」無限城編 第一章 猗窩座再来』、翌日の舞台挨拶生中継付きの会を見てきました。

オープニングを飾るAimerの主題歌「太陽が昇らない世界 - A World Where the Sun Never Rises」は、「何だ何だこのOPは!EDか?」。通常、アニメのオープニングは高揚感や疾走感に満ちたものですが、この『無限城編』のOPはまったく異なる空気をまとっていたのです。

夜の無限城へと落ちてゆく柱と剣士たちの映像。それに重なるAimerの震える、でも芯のある歌声は、胃が浮くような嫌な緊張感を伴い、希望に向かう出発点ではなく、過酷な戦い、抗えない運命、そして取り返しのつかない喪失を予感させていました。まるで鎮魂歌のように心に沈み込むその歌声は、これが単なる始まりではなく、柱稽古編の最終回で無惨の策にかかり、全員が無限城に誘い込まれてしまった「終わりの始まり」、つまり絶望の淵へと向かう物語のオープニングであることを痛感させます。

闇に沈む先で、何を視るのか:鬼たちの「断絶」の物語

こうして始まった『無限城編第1章』は、OPの時点で私たちに静かに問いかけます。太陽が昇らない世界で、柱や炭治郎たちは何を為し、私たちは何を視ることになるのか。その中で深く描かれるのは、猗窩座、童磨、獪岳といった鬼たちの“人間としての記憶”、そして彼らを鬼へと変じた悲しい「断絶」の物語です。

胡蝶しのぶの戦いは、胸が締め付けられるようでした。圧倒的な力の差を前にしても、姉の仇を討つ強い意志、自らの命を賭して童磨に一矢報いようとする覚悟は、まさに思いを託す意志の強さそのもの。彼女の最期は報われぬ犠牲に見えても、その無念はカナヲへと静かに受け継がれていきます。これは、鬼殺隊という組織の絆の深さ、そして命と「思い」がつながっていく物語の原理を強く印象づけました。

そして、善逸と獪岳の戦いでは、「心に穴が開いている、幸せが落ちる音がする。いつまでも幸せで埋まることがない」という獪岳の描写が、鬼が単なる“悪”ではなく、“喪失”から生まれる存在であることを鮮烈に示していました。師である桑島慈悟郎の愛を受け取りきれず、承認欲求を拗らせ、ついに鬼へと堕ちた獪岳。その心の孤独は、観る者の胸にも空洞を残します。

鬼が生まれる構造――“つながりの断絶”としての鬼化

『鬼滅の刃』に貫かれているのは、「鬼は元は人であり、人は鬼になることもある地続きの関係」という姿勢です。決して鬼舞辻無惨の血だけが原因ではありません。鬼とは、もともと人だった者たちが、深い喪失や絶望、そして何より他者との「つながりの断絶」 によって、変質してしまった存在です。彼らのほとんどは、弱者ゆえに強さを求め、誰かを守れず、誰にも理解されないまま、無惨の血に手を伸ばしていきます。重要なのは、血ではなく、「孤独の感情が、つながりから外れてしまった」 という点です。

例えば、

  • 童磨には感情がなかったため、他人の痛みも愛も分からず、真のつながりを持てませんでした。
  • 獪岳は、自分が愛されたことを理解できず、承認欲求を肥大化させ、健全なを築けませんでした。
  • 猗窩座は、守れなかった大切な命への悔恨が、永遠に戦い続ける鬼としての執着となりました。

彼らに共通するのは、誰かとの“つながり”が断絶し、嫉妬や執着、怨恨といった強すぎる「情」が死を超えて鬼となる構造です。これは、古来の日本の物語の延長にあります。


西洋の「悪魔」と日本の「鬼」:「砂の民」と「森の民」のメンタリティー

西洋における悪魔やデーモン、異界のものは、しばしば「絶対的な悪」として存在します。彼らは神に反逆し、人間を誘惑し、魂を堕落させることを目的とします。その起源は神との断絶に由来するものの、彼ら自身が悔恨や悲哀に苛まれることは少なく、むしろ秩序への破壊衝動や、人間を超越した存在としての威圧感に満ちています。彼らは、人間が罪を犯すことで「罰」として現れたり、あるいは純粋な邪悪さをもって世界に混沌をもたらしたりします。

しかし、日本の鬼に共通する哀しみや、人間であった頃の記憶の残滓は、彼らが決して純粋な悪ではないことを示唆しています。鬼滅の鬼たちも、鬼になる前の人間としての業や情に深く根ざしています。彼らは、外部から来た異質な侵略者というよりは、人間の内側から、あるいは社会との関係性の中で、断ち切られた「絆」や満たされない「情」が凝り固まって生まれた存在です。

これは、私たち人類が60万年にも及ぶ歴史の中で、森林の中で集団として生きてきた「森の民」のメンタリティと深く繋がっていると捉えられます。森の民は、一人では生きられず、常に集団との絆が重要でした。彼らは自然の力や目に見えない存在を畏れる一方で、それらが必ずしも善悪で割り切れない、人間自身の感情や行動が影響を与える存在であると捉えていました。豊穣をもたらす精霊もいれば、災害を引き起こす荒ぶる神もいますが、それは自然そのもののバランスや、人間が自然とどう「つながるか」に起因すると考えられました。鬼もまた、人間社会という森の中で、「つながり」が断たれ、調和を失った負の感情が具現化した存在なのかもしれません。

一方で、約5万年前に森を出て広大な砂漠地帯に進出した人類の一部は、「砂の民」 と呼ばれるメンタリティを育みました。彼らは、過酷な自然環境の中で生き残るために、より明確な唯一神や、絶対的なルール、そして絶対神の前の個の平等性を重んじる思考を強めていきました。この「砂の民」のメンタリティにおいて、西洋の悪魔が「神との断絶」から生まれた絶対的な悪であるとすれば、日本の鬼は、「人との断絶」から生まれた、悲しき末路の象徴と言えるでしょう。この対比は、異なる文化圏のエンターテインメント作品に流れる、深い精神性の違いを示唆していると見ています。


鬼滅にハックされた映画館、他の映画のポスターがない

猗窩座(あかざ)という特異点――断絶の修復と“人”への回帰

だからこそ、この「つながりの断絶」という鬼の構造において、猗窩座は例外中の例外として描かれました。

彼は、鬼でありながら、炭治郎との激戦の中で過去の記憶を取り戻し、自分がなぜ強くなろうとしたのか、誰のために拳を握っていたのかを思い出します。それは、病弱な父の薬を買うためであり、三年間の看病で元気を取り戻した恋雪(こゆき)という愛しい人の存在でした。

首を落とされても頭を再生させようとする猗窩座。しかし、力の弱まった鬼たちが人の頃の記憶を取り戻す特性からか、彼は「守るべきもののない強さに意味がなかったこと」に気づき、呆然とします。そして記憶の中で守ろうとした父や恋雪からのねぎらいと感謝の言葉を感じ取り、失われた「つながり」を取り戻すことで、鬼としての再生と不死を拒み、自らの存在を閉じたのでした。

猗窩座の死は、斬られて死ぬ戦闘的な死ではありません。自らの存在の意義を見直し、つながりへと回帰したのです。それは、鬼になる前の記憶が蘇ることで人として赦しを感じ、極めて静かで尊い命のしまい方でした。この無限城編の第一章を特徴付けるのは、間違いなく猗窩座の最期にあると言えるでしょう。


現代社会に刺さる「絆」のメッセージ

鬼舞辻無惨に永遠の命を与えられた鬼は、一見すると悪の集団であり、対する有限の命を持つ人社会がこれと対峙するという、分かりやすい善悪二元論の構造に見えます。これは、「砂の民」のエンタメ的とも言える構図です。

しかし、その奥には、無惨の超個人主義と権威主義、そしてその結果としての究極の「孤独」 と、対する鬼殺隊の「つながり」と「共生」 を重んじる「森の民のメンタリティ」という、より深い対立構造が隠されています。

現代社会は、個人の自由や能力を最大限に尊重するリベラルな価値観が浸透しています。これは素晴らしい進歩ですが、同時に、「個」の追求が行き過ぎ、共同体意識や相互扶助の精神が希薄になり、人々が孤立しやすくなるという側面も生じます。私たちは、SNSで無数の「つながり」を持つようでいて、実は深い孤独を感じているのかもしれません。

『鬼滅の刃』が多くの人々の心に深く刺さるのは、まさにこの現代人が無意識のうちに渇望している、「人と人との根源的な絆」への再発見のメッセージが込められているからではないでしょうか。猗窩座の死、そして鬼殺隊の連帯は、どれほど時代が進み、個が自由になろうとも、人間が人間として満たされ、生きる意味を見出すためには、他者との深い「絆」が不可欠であるという、普遍的な真理を再認識させてくれるからなのです。

最後に

私たちは今、「つながり」が希薄になりがちな時代を生きています。『鬼滅の刃』は、どんなに闇が深くとも、人との絆、そして受け継がれる思いこそが、私たちを照らし、未来へと導く唯一の光であるということを力強く教えてくれています。

この素晴らしい物語を、私たちに届けてくださった吾峠呼世晴先生、アニメ制作に携わったufotableの皆様、そしてすべての関係者の皆様に心からの感謝を申し上げます。そして、この長い記事を最後まで読んでくださったあなたにも、深く感謝いたします。

太陽が昇らないと思える世界でも、私たちはきっと、心の中に「つながり」という名の光を見つけられるはずです。

以上

Article Info

created: 2025-07-19 14:58:05
modified: 2025-07-19 18:59:50
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