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できる生徒の孤独は、なぜ今こんなにもリアルなのか②
平均母集団は本当に変わったのか。国語教科書から小説が消えた理由、ライブ会場で許可を求める観客、説明過多のアニメ。デジタルネイティブ世代が育んだ「ガイド付き」の思考と、ノンバーバル能力が封印された社会の正体を解明。
できる生徒の孤独は、なぜ今こんなにもリアルなのか②
――平均母集団は本当に変わったのか:説明がないと動けない社会の正体
この記事は3つからなっています。
前回の記事では、学校社会において「できる生徒」が、その能力ゆえに孤立していく構造について考えました。そこで浮かび上がったのは、「平均的な母集団の側で、何か決定的な変化が起きているのではないか」という疑念です。
今回は、その変化の正体を、教育、エンターテインメント、そして私たちの日常にある具体的な現象から解き明かしていきたいと思います。
1. 国語教科書から「小説」が消え、そして復活した理由
2026年1月4日の日経新聞で、ある興味深いニュースが報じられました。一度は「実用文(説明文や論理的な文章)」に道を譲り、教科書から姿を消しかけた「小説」が、現場の強い要望で続々と復活しているというのです。
なぜ今、小説が必要とされているのでしょうか。そこには「読解力」という言葉だけでは片付けられない、現代の認知様式の変化が見え隠れします。
本来、小説という装置は、読者に「他人の心を想像すること」を強制するものでした。
- 登場人物の感情がはっきりと書かれていない。
- なぜそんな行動をとったのか、動機が語られない。
- ただ「沈黙」や「情景」だけが描写される。
読者は「この時、彼はどう思ったのだろう?」と考え続けなければ、物語を先に進めることができません。しかし、この「想像の強制装置」が教育現場から後退した時期、私たちは知らず知らずのうちに「想像しなくても困らない環境」に慣れすぎてしまったのかもしれません。
2. ライブ会場で見えた「許可」を求める観客たち
母集団の変化を象徴する、もう一つの光景があります。ある音楽ライブでの出来事です。
人気ユニットのCreepy Nutsが、パフォーマンスの合間に「歌っていいんだぜ」「踊っていいんだぜ」と、観客に向けて非常に丁寧に語りかけていました。これはアーティスト側の優しさや配慮であると同時に、ある種の切実な「指示」のようにも響きました。
かつてのライブ会場は、周囲の動きや空気の震え、音圧といった「ノンバーバル(非言語)な情報」を頼りに、観客が自発的に、ある種勝手に動く場でした。しかし今は、「行動の前に説明や許可が必要」という感覚が、平均的に共有されているように見えます。
「勝手に動いて、空気を壊してはいけない」
「正解の動きを教えてほしい」
こうした心理は、楽しんでいないからではなく、「説明されていない以上、動くのが怖い」という慎重さの表れではないでしょうか。
3. 「説明過多のアニメ」という最適化の形
同じ現象は、アニメ作品にも顕著に現れています。近年のヒット作を見渡すと、登場人物が自分の感情や置かれた状況を、ほぼすべて言葉にして説明する場面が増えています。かつてなら「表情一つ」で表現していた葛藤を、モノローグで逐一解説するのです。
これは作り手の力量が落ちたわけではありません。むしろ、
- 行間を読むことが敬遠される。
- 演出意図が説明されないと「分からない」と切り捨てられる。
- 倍速視聴や切り抜き動画で、文脈が削ぎ落とされる。
こうした視聴者の認知様式に、プロの表現者たちが「最適化」した結果なのです。説明されないと「理解した気になれない」層が増えた世界では、説明こそが最大のサービスになります。
4. デジタルネイティブが育んだ「ガイド付き」の思考
なぜ、こうした「説明待ち」の姿勢が標準になったのでしょうか。その背景には、デジタルネイティブ世代が育ってきた環境の影響が考えられます。
彼らが触れてきたデジタルデバイスやアプリの世界は、極めて親切です。
- 操作には常にガイドが付いている。
- 間違った操作はシステム側で未然に防いでくれる。
- 何かすれば、即座に「正解」のフィードバックが返ってくる。
この世界では、「勝手に判断せず、提示されたルールに従う」ことが、最も効率的で安全な生存戦略になります。つまり、彼らに想像力が欠けているのではなく、「想像や自発的な判断を必要としない世界」に完璧に最適化されているだけなのです。
5. 「ノンバーバル能力」は消えたのではなく、封印された
ここで重要なのは、多くの人が決して「空気」を感じ取れなくなったわけではない、という点です。むしろ、周囲の緊張や微妙な違和感には、かつてより敏感になっている可能性すらあります。
ただ、「感じ取ったことを根拠に、自分の判断で動く」ことのリスクが、現代では高まりすぎてしまいました。誤読すれば「空気が読めない」と叩かれ、説明なしに突出した行動をとれば「ノイズ」として排除される。
結果として、「公式な説明(言語化)があるまで動かない」という行動様式が、最も賢明な振る舞いとして平均母集団に定着したのではないでしょうか。
統合仮説:上位の孤独は「母集団の変容」である
第1記事で考察した『ひゃくえむ。』のトガシのような「できる生徒」の孤独は、まさにこの文脈で説明できます。
- 平均母集団: 説明(ガイド)がないと動けない。非言語的な「行間」を読むコストを避けたい。
- 上位の生徒: 説明なしで理解し、行間から本質を掴んでしまう。
この両者の間には、決定的な「認知の溝」があります。上位の人間が放つ「説明不要の輝き」や「非言語的なメッセージ」は、今の母集団にとっては「すごい」という憧れではなく、「どう扱っていいか分からない、説明コストの高いノイズ」として処理されてしまうのです。
上位の孤独は、彼らの性格の問題でも、努力不足でもありません。「想像しなくても成立するように設計された世界」において、想像力が過剰に機能してしまうことによる不適合なのです。
次の一歩として: 第3部では、この「説明を求める母集団」に囲まれた環境で、上位に位置する私たちはどう振る舞うべきなのか、その具体的な生存戦略と救いについて考えてみたいと思います。
「翻訳」を続けるのか、それとも別の居場所を探すのか。現実的な選択肢を検討していきます。
連作記事
この記事は3つからなっています。