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郷土史「1200年前なぜ今立郡を立てたのか」の講演会は思いの外、勉強になりました
当時、蝦夷による内憂と新羅の外患のため越前は防衛ラインを担いました。そこで、加賀・今立・能見・石川に国と郡が置き、監視の目を増やすとともに、交通と通信の充実のため山沿いの道がバイパス化されました。後の朝倉街道です。武生盆地はもともと渡来人が多く盆地に暮らし防衛環境に適した土地柄で継体天皇(男大迩王)が進出した地でした。日時:2023-09-10
主催:南中山地区自治振興会特別事業
講師:真柄甚松氏
場所:アイパーク
最初のお断り
講師は最初「この講演はロマンとして語っている」、と仰っておられたので史実がはっきりしないものも含まれるということでしょう。 以下はそのメモです。よく語尾が聞こえず、間違って記述しているところもあるでしょう。
今立建郡823年
現在の福井県越前市の三里山東側に今立郡を置いたのは、時の統治者が東北アジアの国際状況の変化をとらえ、統治の観点と国内事情がそうさせたといいます。今立郡は平安遷都(794)後に置かれましたが、それは国防上、日本海側に防衛線を張り、中央と地方の迅速な連絡網を設けるためでありました。もともと、現福井の嶺北地方には古墳時代に豪族ライン(三尾:丸岡←→生江←→味真:味真野)がありました。
またこの地はさらに先の朝鮮の動乱?で倭に来た技能集団(いまきのてしと)が定住して場所でした。敦賀から三尾まで駅が置かれましたがそれは幹線道路として平野に置かれ(日野川沿い)、山側にサブの道路として整備された。敦賀から木の芽峠を経て鹿蒜に行き、阿味(味真野?)から三尾までの山岳道路です。
5世紀のできごと
日本では倭国の古墳時代中期にあたり、各地で巨大な前方後円墳が築造され、地方とヤマト王権中枢双方の首長たちの祭祀儀礼が執り行われました。この世紀の倭国は朝鮮半島諸国間の紛争に活発に武力介入を行っていたことが、日本側と朝鮮半島側双方の歴史記録から伺われます。当時の5代に及ぶ治天下大王が東晋から南朝にかけての江南の王朝に盛んに朝貢して王号と官職を得ていたことが中国正史の記述に残されており、倭の五王として知られています。
北海道北部や東部では続縄文文化とは異質な海獣漁労民のオホーツク文化(中期)が拡大していきます。
1. 中山・味真野郷の位置 山沿いの道
- 中山郷:三里山の東側
- 500年前後に今来才伎(いまきのてしと)と呼ばれる渡来人が武生盆地に定住し手に技を持ってきました。
- 彼らは漆器、繊維、和紙、製鉄、窯業を持っていました
- 弥生時代の渡来人:小渡りのてしと として区別しています
古墳時代
- 三尾の豪族(丸岡、久津流加工)
- 生江の豪族
- 味真野の豪族(越前市味真野)
それらをつなぐ道があり、それがもとになっている様です。
奈良時代
馬を使うようになったので平地が道になります。
武生盆地は、周りが山で囲まれ、外敵に対して守りやすく、対応しやすいので丸岡より防備に優れていました。そこに技術集団が定住し、多くの人が住んでいました。
その様な防災の観点でも男大迹王子(おおとの王子)は丸岡から移住してきました。
その後、男大迹王子は味真野から中央に出て即位します。
継体天皇
(この辺りから眠い...)
越前は内憂外患
- 朝廷に従うように交錯した。
- 蝦夷は従った
- 奈良時代は位が重要(30段階に分かれている)
水際作戦で外観を止める役割を持たせた
丹生郡の軍事
国司は中央からやってくる
東北に200〜300に移住させられる。融和をはかるのが目的。
さみし?が丹生軍の郡司
村国移籍
役人が使うベルト:牛の骨で作ったベルト
天皇の命令で蝦夷をやっつける(征夷大将軍:坂上の田村丸)
外患
- 白村江の大敗で都を大津に遷都
- 渤海の台頭し新羅と唐は反発し、渤海は日本と接近、新羅と国交断絶し出兵計劃(759)
- 敦賀から入ってきた敵を神社を立てて神頼みで社が多い
以上