toriR blog
『君の膵臓をたべたい』──理不尽な死と語り直すこと
『君の膵臓をたべたい』は、青春恋愛を纏った死者との会話による再生の物語。唐突な喪失と向き合いながら、残された者たちはなぜ「語る」ことで前に進めるのか──死とともに生きるとはどういうことかを、アニメ版をもとに静かにたどります。
はじめに
住野よるによる原作小説『君の膵臓をたべたい』は、映画化・アニメ化され、今なお多くの読者・視聴者に深い余韻を残している。
筆者がこの作品に興味を持ったのは、同じ作者による『かくしごと』の実写化をきっかけにだった。たくみに仕組まれた時代設定と、見えないものを描く誠実な構成に惹かれ、自然と他作品にも手を伸ばした(考察はこちら)。
ネットでは今もなお『君の膵臓をたべたい』(通称キミスイ)の感想が書き込まれ続けており、実写とアニメの両方を観る中で、次第にこの物語が単なる「恋愛青春もの」ではなく、死と向き合い、死者と語ることの意味を描いた深い作品であると気づき、見たのは最近ながら時を経た今、ブログにまとめてみたくなったのです。
実写版は教師となった「僕」が生徒と対話しながら物語を振り返る構造を持ち、その後の人生が描かれているぶん、喪失後の再生に焦点が置かれています。
一方で、アニメ版には言葉にならない余白があり、感情が沈殿するような重さがあります。
今回はこのアニメ版をもとに、「死者を語ることは、なぜ私たちにとって必要なのか」という視点から読み解いてみたいと思います。
1. 恭子と僕──ふたつの視点が見た“ 桜良”
この物語のもう一人の重要人物が、 桜良の親友である恭子です。
恭子には当初「僕」は映っていなかったでしょうし、「僕」は彼女は決して嫌っていたわけではなかった。
「僕」が 桜良と親しくなるにつれ、彼女は冷たい視線だけでなく、はっきりと態度に出して「 桜良に近づくな」と言い放ち、僕を脅すような言動さえとりました。
弁明しない「僕」への憶測はクラスの中で雪だるまのように大きくなり、刺々しいものになっていきました。それでも僕は反論しませんでした。 桜良が大病を患っていることを知ったら恭子が普通でいられなくなるだけでなく、だからといって嘘もつけず、沈黙を選ぶしかなかったのでしょう。
中学時代、誰とも友達を持てなかった恭子は、桜良に声をかけられて親友になりました。その経験から、恭子は“孤独”の実態を知っていたはずです。だからこそ、僕が抱えているもの──心を閉ざし、人と距離を置きながらもどこかでつながりを求めていること──にも、直感的に気づいていたのでしょう。それゆえ「僕」の無愛想な振る舞いが桜良を傷つけるかもしれないことを恐れ、それを強い拒否の態度で表現してしまいます。
恭子にとって、 桜良は守るべき存在でした。そして僕は、知らないうちにその防衛線の向こう側に立たされていたのです。
旅行から帰ってきた僕を待っていたのは桜良の保護者から諌めの言葉だった
桜良の普通の日々を守りたい。
彼女の秘密や死の影を壊したくない──。
その強い思いが、他者を排除する行動として表れていたのかもしれません。
2. 共病文庫──死を越えて届いた言葉
物語の後半、 桜良の死後、彼女の母親が「僕」の願いを受け取り、手渡してくれたのが「共病文庫」でした。それは、病気の記録ではありませんでした。日常をどう過ごしたか、誰と何を話し、どんな喜びと哀しみを抱えていたかの日常が、彼女らしく綴られていました。
とくに印象的だったのは、「『僕』にあんなに必要とされてるなんて知らなかったから嬉しくて嬉しくて、一人になった後たくさん泣いた」と書かれていた箇所です。
それは、必要とされた嬉しさと、命の残り時間の悔しさ、悲しさが交錯する独白でした。「僕」はその文庫を読みながら、桜良の言葉の背後にあった意図や感情に、はじめて気づいていきました。そして、桜良の親友だった恭子にも文庫を渡す決意をします。
喫茶店で文庫を受け取った恭子は、驚きと怒りと悲しみの入り混じった感情がわきおこり、泣き崩れます。
なんであんたは私に言ってくれなかったんだ
許さない、桜良が大切に思い愛したあんたでも許さない
もっと時間を作って一緒にいてあげられたのに
彼女の反応は当然でした。彼女にとって、知らなかった 桜良の一面が僕との間に存在していたことは、裏切りにも似た衝撃だったはずです。共病文庫は、ふたりの断絶を突きつけると同時に、再び関係を紡ぎ直す“橋”にもなっていきます。
3. 再接続の儀式──死者とともに生き直す
一年後、 桜良の命日と思われる日。
僕と恭子は、静かに墓前で手を合わせます。
二人に会話はありません。僕が人を信じること、信じられることがすごく難しかったこと、恭子とも十分には和解が進んでいないことが心の声で語られます。
お参りを先に終えた恭子に、
僕「しあわせになろう」
恭子「なにそれ、あたしに告白してんの?引くわー」
僕「まさか、もっと大きな意味だよ」
( 桜良の花びらが一枚舞い、それに僕ははっとする)
恭子「何ぼさっとしてんの? 桜良の家に行くよ」
僕「そうだね、 桜良がまってる」
ただ先に降りた階段の下の恭子の後ろ姿を「僕」が静かに降りていく。アニメ版は余韻のある終わり方で好きです。この短いやりとりの中に、死を越えて関係をもう一度結び直す意志が凝縮されているように思えます。
「幸せになろう」という言葉は、さくらという存在が「僕」と「恭子」に遺したもの──
痛み・気づき・未完の会話を、ようやく語れる形にした再出発の言葉だったのではないでしょうか。
それは、「さくらが待ってる」という言葉に結ばれ、死者を想いながら、生者同士が歩き出す物語の静かな締めくくりです。
生きてる者が亡くなった人を語るというのは、単なる思い出話ではありません。故人のエピソードをその人の視点で語る時、自分とは違う時間が流れた記憶であり、故人の生前の像が新たに浮かび上がる瞬間です。そして、態度や口調から故人をどう偲んでいるのか理解し、生きているもの同士の結びつきを強くする作用があります。 桜良のいない家族との会食で涙だけでなく、驚きや、笑いも飛び出したことでしょう。切なくともそれを共有することが弔いになったはずです。
終章 : 理不尽な死と、それでも結び直すということ
桜良の死は、あまりに唐突で理不尽でした。膵臓の病ではなく、通り魔に襲われ命を奪われたという展開は、物語の予定調和を崩し、感情の収束を一時停止させるほど見てるものに衝撃を与えました。
視聴者の多くは、喪失の実感が追いつかず、その後に描かれる「再接続」や「語り」に、すぐには共感できなかったかもしれません。
しかし、だからこそラストシーンの静かなセリフには意味があります。
墓参りという“語らない時間”と、「 桜良の家に食べに行こう」という一言。
この物語は、死が断絶を意味するのではなく、死とともに生きることの意味を、私たちに問いかけているように思います。深いテーマの作品でした。
皆さんは、どんな言葉で大切な人を語り直したいですか?
以上