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映画:『か「」く「」し「」ご「」と「』を見て——可視化された時代に「語ること」の重さを問う
この映画は、他人の感情が–少しだけ見える–高校生たちが、それゆえに動けず、語れずにいる姿から始まります。本記事では、彼らの–隠し事–をZ世代の感受性や現代社会の空気と重ねながら読み解き、言葉にすることの意味、実写だからこそ見えてきた演者の深層にも触れていきます
1. はじめに:「隠し事」とは何か?
映画『か「」く「」し「」ご「」と「』を観ようと思ったきっかけは、いくつかの偶然が重なったことでした。ドラマ『御上先生』で強い印象を残した奥平大兼が出演していること、原作が『君の膵臓をたべたい』の住野よる氏であること、そして「青春心理劇」「特殊能力をめぐる対話劇」といった前情報が心を惹きつけました。
最近は青春アニメをよく観ていたこともあり、「ヒトが演じる」実写の身体性が、アニメとどう違うのかを比較してみたいという関心もありました。さらには、Z世代と呼ばれる若者たちが、いま何を感じ、どう言葉と向き合っているのか――その空気を知りたいという思いもありました。
この映画が描くのは、単なる秘密の共有ではなく、「言葉にできなかった感情」そのものです。誰かの心がほんの少しだけ“見えて”しまうことで、むしろ誤解が生まれ、動けなくなってしまう。その閉塞と、それでも語ろうとする姿勢こそが、この物語の核心にあると感じました。
以下に綴るのは、一度観ただけの記憶に基づくものであり、セリフの引用などに間違いがあるかもしれません。解釈もまた、あくまで私の視点にすぎません。ただこの文章が、映画をより深く味わうための小さな手がかりとなれば、望外の喜びです。
2. “少しだけ見える”特殊能力と、現代の可視化社会
登場人物たちは、それぞれ異なる特殊能力を持っています。京は他人の感情が「黒いもや」として見え、エルは恋愛感情の矢印が見える瞬間があり、パラは心拍数の変化を読み取ることができます。ヅカは人の心がトランプのマークのように見え、温度を伴って感じ取ることができます。
登場人物一覧(氏名・呼び名・演者名・特殊能力)
氏名 | 呼び名 | 演者名 | 特殊能力(見えるもの) |
---|---|---|---|
大塚 京 | 京(きょう) | 奥平大兼 | 他人の感情が「?」「!」「…」などの記号で見える |
三木 直子 | ミッキー | 出口夏希 | 他人の感情が「+」「−」のバーで見える |
黒田 文 | パラ | 菊池日菜子 | 他人の心拍数の変化(興奮・無関心など)を読み取れる |
高崎 博文 | ヅカ | 佐野晶哉 | 他人の感情(喜怒哀楽)がトランプのマーク(♠︎♥︎♦︎♣︎)で見え、温度も感じ取れる |
宮里 望愛 | エル | 早瀬憩 | 他人の恋愛感情が矢印として見える |
これらの能力は、SNSや共感圧力、読心的忖度が蔓延する現代社会を象徴(メタファー)しているのでしょう。私たちは、他人の気持ちが少しだけ見えることで、かえって動けなくなってしまうことがあります。見えているのに、どうしていいかわからない。それが、彼らの抱える苦しさなのだろうと思いました。
3. 五人はなぜ“動けなかった”のか?
この物語では、登場人物たちが「少しだけ見える」特殊な能力を持っています。にもかかわらず、あるいはだからこそ、彼らは重大な場面で“動けなかった”のです。ここでは、それぞれのキャラクターが動けなくなった場面を事実として整理し、そこから読み取れる心理的背景や時代性を考察してみたいと思います。
京――「自分にはそんな力はない」と思い込む
京は、エルが不登校になった原因が、自分の何気ない一言――「シャンプー変えた?」という指摘だったことに気づいていませんでした。彼女が2ヶ月も学校に来ていないにも関わらず、彼は特別な行動を起こすことなく、ただ時が過ぎるのを見ていました。
これは、自己肯定感の低さに根ざした無行動であり、京という人物が「他人の感情が見えてしまうがゆえに、余計なことは言わないほうがいい」と考えてしまう慎重さの現れでもあったと思います。自分の言葉が他人に与える影響を予感しながらも、それが“正しく”届く自信がなく、結果として沈黙を選ぶ。その振る舞いは、「傷つけたくない/傷つきたくない」両方の感情のバランス取りとも重なります。京のように、“力がない”のではなく、“力の出し方がわからない”まま立ち止まってしまうという感覚は、今の時代ならではの戸惑いとして自然に感じられるのです。
#### ミッキー――“明るく強い”の奥にある、答えられなさ
ミッキーは、進路指導の場面で「何になりたいのか?」と先生に問われても答えられませんでした。そして、思わず「ヒーローになりたかった」と、自分でもよくわからない言葉を口にします。
ミッキーは、自分を明るくポジティブな「強い存在」として振る舞い続けています。その姿は、周囲にとって安心や推進力になるような「キャラ」に見えますが、それは同時に彼女自身が「そうでなければいけない」というプレッシャーを引き受けていることを意味しているのかもしれません。
彼女の「ヒロインではなくヒーローになりたかった」という言葉は、他者の物語に“守られる存在”ではなく、“支える側”として位置取りたいという願望の表れに見えます。しかし裏を返せば、それは自分の弱さや不安を見せることを避け、「誰かのために動ける私」であり続けようとする必死の自己イメージの維持とも読めます。
本当は、彼女自身が誰かに理解され、支えられたかったのではないか。にもかかわらず、自らが「ヒーローである」という仮面をかぶり続けることで、その欲求を内面に押し込み、明るく振る舞うことしかできなくなっていた――そんな構造が見えてきます。すなわち、“支える人”に徹することで自分を消してしまう危うさです。
ミッキーの“揺らぎ”は、他人のために動こうとする美徳の裏にある、語れない自分の声の存在を示唆しているように思われます。これは、Z世代に限らず、今を生きる多くの若者に共通する「演じること」と「本心」との間のギャップのメタファーとも言えるでしょう。
#### エル――“想像された悪意”に押しつぶされる
エルは、ある日京に「シャンプー変えた?」と何気なく聞かれたことで、強いショックを受けてしまいます。そのシャンプーは高級品であり、「私なんかがこれを使っていたら、きっと誰かに何か言われる」と自分で勝手に悪い想像を膨らませ、不安と羞恥に襲われて学校に行けなくなってしまいます。彼女が実際に誰かから責められたわけではありませんが、心の中で“そう言われる未来”を作り出してしまったのです。
この出来事は、エルが極端に「他人の視線」や「評価」を内面化してしまう感受性を持っていることを示しています。彼女の特殊能力は、恋愛感情の矢印が“ときどき見える”というものですが、それは常に可視化されるわけではありません。むしろ、“見えない”時の不安こそが彼女を苦しめていたように見えます。
また彼女は、「嫌われているのではないか」と思い込むと、それを誰にも確かめることなく、自己否定のループに閉じこもってしまいます。それは、他人がどう思っているかよりも、「自分がどう思われているかを想像する自分」に押しつぶされている状態でした。
エルの苦しみは、単に「傷つきやすい性格」というよりも、承認されたいという気持ちと、そんな自分をどこかで否定してしまう感情が、せめぎ合っている状態に見えます。人に見られたい、人に好きでいてほしい――でも、「私なんかが」とすぐに思ってしまう。そのため、誰かに見てもらうこと自体が恐ろしくなる。こうした心理は、他人の感情が“少しだけ見える”能力と絶妙に呼応しています。
彼女が「誰かの気持ちが見える瞬間」とは、裏返せば「いつもは見えないから怖い」ということの証でもあります。見えないからこそ、自分の中に“否定される未来”を作り出してしまうのかもしれません。
エルの姿は、他者の視線を前提に生きる社会――とくにSNSや学校という閉じた関係性のなかで、自己イメージの管理に苦しむ若者たちを思わせます。人からどう見られるかが日常的に意識される環境では、「まだ起きていない評価」が、すでに自分を苦しめる力を持ちうるのです。
このように、エルの不登校という出来事は、現代的な「想像された悪意」のリアリティを描いているように感じられます。そして、それが物語の中で“語られた”ことで初めて少し前に進めた点も重要です。
パラ――“空気を読む者”が物語を作るとき
文化祭の演劇で、パラは自ら悪役を演じました。けれど、それだけではない。企画の段階から「ヒーローものをやろう」と言い出し、キャスティングを決め、ミッキーをヒーローに据え、台本の骨格も自分で書いたのです。つまりこの演劇は、彼女自身の“語りたいこと”を、誰かの口を借りて語ろうとする試みでもあったのでしょう。
終盤、観客の反応に動揺したミッキーが言葉を失ったとき、パラはそっと「大丈夫」と寄り添い、そして、自分の言葉で物語を締めくくった。
「悪はそれぞれの心にある。勧善懲悪で問答無用に悪を切り捨てる社会になったら、また私たち悪が出てくる。」
この一言は、単なるアドリブではなかったように思える。むしろ、自分が作った物語が、正義に飲み込まれて終わってしまうことへの抵抗だったのではないか。台本通りに進んでいれば、ヒーローが勝利し、悪がやられて終わる。しかしそれでは、あまりに単純で、あまりに嘘くさい。だからこそパラは、悪の側から語るエピローグを、挿入したのでしょう。
パラの能力は、人の心拍の変化を読むこと。空気を読む能力の過敏化すると「盛り上がってる/白けてる」が感覚的に伝わる=他人のテンションに振り回される人の心性がでてくることになり、これに振り回され、本当の自分を見失って苦しみます。
でも、「また私たち悪が出てくる」という一言は、排除されたものの側に立って物語を語り直すという、作り手としての決意でもあり、彼女の演技に強さも感じました。
ヅカ――“感情の温度”に戸惑いながら、言葉で向き合う強さ
ヅカには、人の心がトランプのマークのように見え、その感情の温度まで感じ取れる能力があります。楽しいときは暖かく、怒りや悲しみのときは熱く/冷たくなる――そうした微細な心の変化に、常にさらされているのです。
彼はクラスのムードメーカーのように振る舞い、誰に対してもフラットで明るいキャラを保っています。しかしその内側には、自分の感受性の強さゆえに、他人とどう接すればよいのか分からなくなる戸惑いと不器用さが見え隠れしています。
同じく他人の感情を感じ取れるパラに対しては、「心が躍らない」と語ります。それは、パラから自分の仮面が見抜かれるような気がしたからかもしれません。あるいは、互いに“感じすぎる”者同士で、感情の居場所をうまく作れなかったのかもしれません。
そんな彼が、物語の後半で倒れたパラを病室に見舞った場面は印象的です。
「お前は俺のこと嫌いだろ。でも俺は、お前のことスゲー奴だと思ってる。」
そして、「悪だって思ってても、そいつのことを悪人だとは思わない。行動したことがその人なんだと思う。」
この言葉には、ヅカの感受性が他人との距離を取るためではなく、相手に寄り添い、言葉を届けるために使われた瞬間が表れています。感情の温度を読み取る力を持ちながら、それでも自分の口で語ることを選んだ――そこに、彼の大きな変化があったのだと思います。
#### 「見えている」のに「語れない」──その構造
彼らは皆、何かが“見えて”いました。記号、矢印、感情、空気…。しかしそれを言葉にすること、すなわち「語ること」は誰もが避けていたのです。語ってしまえば壊れてしまうかもしれない、間違えてしまうかもしれないという恐れが、彼らを黙らせていたのでしょう。
だからこそ、この物語の“隠し事”とは、秘密そのものというよりも、「語らなかったこと」や「言えなかったこと」の連鎖であるように思えます。そして、それを“語れるようになる”までの過程こそが、本作における“成長”の物語なのだと感じます。
4. 「語れない」私たちの時代性──Z世代という背景
第3章では、登場人物たちが“動けなかった”理由を一人ひとり丁寧に読み解きました。彼らに共通していたのは、「少しだけ他人の感情が見えてしまうこと」によって、自分の感情が語れなくなるという、奇妙な逆説です。では、この“語れなさ”は、なぜ今の若者たちの姿と重なって見えるのでしょうか。
Z世代と呼ばれる彼らは、バブル崩壊後に生まれ、経済成長が止まった日本で育ちました。リーマンショック、東日本大震災、パンデミックといった不安定な出来事が次々と起こり、将来を明るく見通すことが難しい時代が当たり前のものとなっていました。こうした社会環境の中で、彼らは「努力すれば報われる」「未来はよくなる」といった過去の成功物語を信じきれずに育ってきたのです。
その一方で、学校や大人たちは彼らに向かって、「好きなことをしていい」「自由に選べる」と語りかけます。けれども、その自由には指針がなく、具体的なロールモデルも示されません。「やりたいことをやれ」と言われながら、何をやりたいのかを探す道しるべもない――その曖昧さこそが、現代の若者たちに課された目に見えないプレッシャーなのではないでしょうか。
さらに、SNSやデジタル技術が生活に深く入り込むなかで、感情のやり取りは「可視化されたふるまい」へと変わっていきました。既読スルー、いいね、絵文字……日々の些細な行動が、周囲の目にさらされるようになっています。「言葉にしなくても伝わる」「空気を読め」という文化の中で、「語ること」自体がリスクを伴う行為になってしまっているのです。
この映画の登場人物たちも、まさにそうした「少しだけ見える感情」によって行動を迷い、語ることをためらっていました。たとえばエルは、京のさりげない一言に「嫌われたかもしれない」と感じ、誰にも何も言えないまま学校を離れてしまいました。ミッキーもまた、明るく振る舞いながら、自分の将来像を言葉にできない葛藤を抱えていました。ヅカやパラは他人の心の温度や変化を読み取りすぎて、かえって立ちすくんでしまいました。
こうした“語れなさ”は、決して無関心や沈黙ではありません。語った瞬間に傷つくかもしれないという予感が、慎重な沈黙を選ばせているのです。言えば誤解されるかもしれない、黙れば関係が遠のいてしまうかもしれない――その狭間で揺れ動く繊細な心こそが、今の若者たちのリアルなのだと思います。
この作品は、登場人物たちが語り損ねた言葉を、観る者に届けようとしているように感じられました。彼らは「語れなかった」けれど、「語りたい」と願っていました。その一歩が、たとえ不器用でも踏み出された瞬間にこそ、観客は心を動かされたのではないでしょうか。
そして彼らは、たとえ言葉が届かないかもしれなくても、それでも語ろうとしました。その語りの瞬間にこそ、彼らはようやく前に進むきっかけを掴んだように見えたのです。次章では、そんな「語ること」がもたらす変化に注目し、それぞれのキャラクターがどのように“前進”していったのかを見ていきます。
5. 言葉にしたとき、関係は動き出す
登場人物たちは、それぞれのタイミングで「言葉にする」ことで、関係が動き出します。
- ミッキーは、シャンプーを変えることで、エルと同じシャンプーを使ったことを京に気づかせ、それがエルと同じだったことも京に言わせます。エルは、ミッキーが心配してくれたことで、京が自分を嫌っていないことがわかり、登校できるようになります。
- 京は、自分の思いに向き合い、ミッキーに対して「ごめん、僕は釣り合わない」と本心を言えず謝ってしまいます。しかし、エルが背中を押してくれたことで、自分の気持ちを伝えることができるようになりました。
- パラは、文化祭の演劇で「悪は心の中にある、勧善懲悪で問答無用に悪を切り捨てる社会になったらまた私たち悪が出てくると言うお話でした」とアドリブで締めくくります。彼女は、自分の思いを言葉にすることで、観客にメッセージを伝えることができたのです。
- ヅカは、寝不足で失神してしまったパラを見舞い、「俺は思っただけでは悪い奴だとは思わない。行動したことがその人なんだと思う」と伝えます。彼は、自分の思いを言葉にすることで、パラに気持ちを伝えることができたのです。
このように、「語る」ことで人は前に進めるのだと思います。だからこの映画は、「隠し事を暴く物語」ではなく「隠し事を語れるようになる物語」なのだろうと思います。
6. 実写でしか映らなかった“ヒトの中身”
特にパラを演じた女優菊池日菜子の演技には、強い印象を受けました。彼女は、他人の感情に敏感すぎるがゆえに、自分の感情を抑え込みながら、他人に合わせた言動をとる少女を演じていました。台詞以上に、ためらいや間、視線の動き、そして表情の“保留”が、彼女の内面を伝えていたように思います。特に前半で京のミッキーへの思いを見抜くシーンの目は凄みがありました。これは、アニメでは描ききれない、俳優の身体性が宿した“中身”だったろうと思います。
ミッキーを演じた俳優も、明るく輝く一方で、自己を見失いそうになる刹那を見せてくれました。特に「ヒーローになりたかった」とふと漏らす場面の、どこか焦点の合わない目線が印象的でした。そのとき、彼女は他者に向かって言っているのではなく、自分の“正体”を探していたように演じていました。
また、京の語尾には、陰のある人物像にもかかわらず明確な意志が感じられました。これは、彼のキャラクターが「ただの無気力な陰キャ」ではなく、言葉にする強さをどこかで持ちうる存在であることを示唆していたように思います。
かれらは、脚本が求めるキャラクター像を超えて、演者たちの“解釈”がにじみ出ていたのかもしれません。そこに、実写というメディアを選んだ意味があったのではないかと感じます。
7. タイトル『か「」く「」し「」ご「」と「』に込められたもの
タイトルに含まれる不思議なカギ括弧は、多くの観客に違和感と興味を抱かせます。あえて閉じられていない括弧、そして一文字ずつに括弧がある構造。この意図は劇中では明示されませんが、観た者が読み解くべき“隠し事”そのものを象徴しているように思えます。
まず「か」「く」「し」「ご」「と」の五文字がそれぞれ、5人の登場人物に対応していると考えると、彼らがそれぞれ抱えている秘密、あるいは言えなかったことを象徴しているように見えます。そして最後の「と」のカギ括弧だけが閉じられていないことには、開かれた問いが込められているのかもしれません。
たとえば、それはヅカの“隠し事”がまだ明かされていない、あるいは未完成なまま終わることを示しているのではないでしょうか。ヅカは、誰よりも陽気に振る舞う一方で、他人の心が見えてしまうことに苦しんでいた人物です。パラに対して、自分の本音を打ち明けることはできたものの、恋愛的な矢印は明示されず、物語のラストにおいても“何かをしまいこんだ”印象が残ります。
それは、観客自身が“隠し事”を持っているということへの問いかけにも見えます。この映画のタイトルは、問いとしての構造を持ち、答えは映画の外にあることを示しているのかもしれません。
8. なぜ今、この物語だったのか?
この物語が2025年の今、作られた理由を改めて考えたいと思います。
現代は、他者の感情が“見える”時代です。SNSを見れば、誰が誰に「いいね」したか、どんな感情を抱いているかが少しだけ分かってしまいます。学校や職場でも、空気を読むことが日常的に求められ、沈黙や忖度の中で本音を語れなくなっていく。感情の可視化が進んだことで、かえって“動けなくなる”時代になっているのではないでしょうか。
この映画に登場する高校生たちは、皆「少しだけ他人の感情が見える」という力を持っています。しかし彼らは、その力ゆえにむしろ誤解し、すれ違い、動けなくなっていきます。他人の本音が「見えてしまう」ことで、想像が膨らみすぎ、自分の言葉を失ってしまう――それが現代の若者のリアルな姿に重なります。
けれど、この物語は「見えること」と「語ること」は違うのだと教えてくれます。たとえば、ヅカは人の心の温度を感じ取れる能力を持ちながらも、最後には自分の言葉でパラに伝えました。
「行動したことがその人なんだ」
この一言には、他人の感情を見抜くだけではなく、自分自身が何を言い、どう動くかこそが大切なのだという全体のメッセージが込められていたように思います。「見える」ことは責任を伴わないけれど、「語る」・「行動する」ことは、結果的に傷つくくことになるかもしれないけど、勇気を持って前に進もうと言っているようです。
この映画は、可視化されすぎた現代社会において、「見るだけ」では生ききれないこと、「語る」ことでしか関係は始まらないことを、だからこそ、今この時代に、時代を映す鏡として「かくしごと」という物語が必要だったのではないかと思います。
あとがきに代えて:この考察は浅くなかったか?
ここまで見てきたことが、作品の本質にどれだけ迫れていたか、自分でも確信があるわけではありません。ただ、それでも「何かを語らなければ」という衝動がこの映画から立ち上がったことは確かです。
観客として感じたこと、演者の表情に滲み出た中身、そして脚本に込められた問い。それらが結びついて、この文章が生まれました。この考察が浅いものではなかったかどうか――それもまた、読んでくださったあなたが感じることで、この物語の最後の「と」——閉じられていない括弧の続きを、誰かが書き足すことなのかもしれません。
以上